私たちの住む本郷は
どんなところなのでしょうか。
いつぐらいから人が住んで
どんな暮らしをしていたのでしょうか。
これからの本郷は
どんなまちになっていくのでしょうか。
本郷まちづくり推進委員会では、みんなでまちを歩いてみて、本郷のまちの歴史を調べたり地元の歴史家の話を聞いたりして、だんだんといろんなことがわかってきました。昔の本郷は国富荘(くどみのしょう)という大きな荘園だったこと、江戸時代は飫肥藩が治めていたこと、松井五郎兵衛がつくった松井用水路のお陰で、稲の収穫が増え新しい田んぼがいくつもできたこと、太平洋戦争のときは赤江飛行場から多くの若者が飛び立っていったことなども知ることができました。
ぜひ本郷のまちを歩いてみてください。みなさんが本郷のまちを歩くことで、まちをもっと好きになってほしいと思い、4つのコースにまとめました。
まちを歩いたみなさんの「発見」や「出会い」などの新しい物語を書き加えながら、この探検ブックを一緒に完成させたいと思います。
「本郷」は、一万年以上前から人々が生活していました。縄文時代には狩猟をし、木の実を採集しました。弥生時代には稲作を行っていました。
「本郷」は、地域の中心となる地名で全国各地にあります。「本郷南方・北方」は国富荘の中心地ということです。鎌倉時代に作られた土地台帳『建久図田帳(けんきゅうでんちょう)』(建久8年/1197)にある「八条女院領国富荘(はちじょうにょいんりょうくどみのしょう)の本郷」に由来して付けられました。「八条女院」は、鳥羽天皇の三女の暲子内親王(あきこないしんのう)のことです。
太平洋戦争中は、海軍特攻基地だった赤江飛行場(現在の宮崎空港)から多くの特攻隊員が出撃していきました。
明治22年(1889)には赤江村、大正15年(1926)には赤江町となり、昭和18年(1943)に宮崎市と合併しました。現在、宮崎市内に22ある地域自治区の一つが「本郷地域自治区」です。
冬の乾燥した風がおいしい千切り大根をつくる
豊かな田園が広がる
本郷のことを子どもたちに伝えたい
田元神社の風鈴回廊
本郷南方の掩体壕
松崎観音に立つ仁王像
赤江浜はサーフィンのメッカ
野菜や花の栽培も盛ん
アイスランドポピーが彩る南バイパス
山崎川のホタル
発行・制作 本郷まちづくり推進委員会
編集委員 文化部会(小玉順昭・落合睦広・大野秀行・稲井昌子・甲斐慎二・
木佐貫ひとみ・佐々木道史・竹山浩史・松山広志・湯地哲哉)
監 修 前田博仁(宮崎民俗学会会長)
発行日 2019年3月
参考文献